2005年12月号『波』の表紙 [掲載記事・取材など]
2005年12月号『波』の表紙
新潮社の情報誌『波』です。2005年12月号の表紙です。
ドナルド・キーンの筆文字で、徒然草の十三段の引用です。
父の好きな段だったと思います。達筆とはいえないかもしれませんが、父らしい個性と感性にあふれたいい書だと思います。
電話中(2011年8月6日) [ドナルド・キーン]
電話中(2011年8月6日)
ニューヨークの家で、朝電話する父です。
着ているシャツは、普段着ですが、着易かったようでお気に入りでした。今は時々私が着ています。勿体ないですけど、私が着ることで父もシャツも喜ぶと思うものですから。
「生涯を日本に捧げた」(田中優子:週刊金曜日 2019年12月20日) [掲載記事・取材など]
「生涯を日本に捧げた」(田中優子:週刊金曜日 2019年12月20日)
これまで父の没後、約1年5か月間くらいにわたって雑誌や新聞に掲載されたドナルド・キーンに対する追悼文をご紹介させて頂きました。相当な量になると思います。これだけ多くのお心のこもった追悼文を、それも各方面から寄せられた人は最近では非常に珍しい、とよく言われました。父としても大変幸せなことだと思います。
たぶん私が知っている範囲では、これが最後の追悼文になろうかと思います。見落としたり、知らないでいるものもあるかもしれませんが、見つけ次第またご紹介させて頂きます。
最後は、法政大学総長の田中優子先生です。仰るように、父自身は直接存じ上げておられなかったかもしれませんが、父の本棚には田中優子先生の本もありますし、お書き下さった通り私は鳥越先生や猿八座の西橋さんを通じて存じ上げていました。『弘知法印御伝記』の上演もご覧頂きました。
先生がご想像の通り、父は書斎で執筆をしながら、隣の部屋で私が浄瑠璃や三味線の稽古をしているのを喜んで、楽しみにしていたと思われます。
父に空港まで送ってもらう2(2011年8月8日) [ドナルド・キーン]
父に空港まで送ってもらう2(2011年8月8日)
父は、私がチェックインする直前に、乗って来て待たせてあったタクシーに乗って帰りました。
養子縁組する7か月ほど前のことでしたが、89歳のありがたい親心でした。
タクシーに乗る前に私の写真も撮ってもらいました。
非常に恐れ多くて、帰国後直ぐに親友だった故永井道雄先生の奥さまに、「ありがたく、恐れ多くてどうしようかと思いました」と報告したら、「いいのよ、いいのよ、やって頂いたら、キーン先生良い方よ」と言っておられました。
父に空港まで送ってもらう1(2011年8月8日) [ドナルド・キーン]
父に空港まで送ってもらう1(2011年8月8日)
2011年8月にニューヨークの父を訪ねた時、私が帰国するにあたって父は、JFK空港まで私の荷物を持って送ってくれました。
最初の写真二枚は、家のエレベータの中で、後の三枚は空港に着いてからです。父の家は、建物の11階にありました。懐かしい思い出です。
対談”平野啓一郎×ロバート キャンベル”2(『文學界』7月号) [掲載記事・取材など]
対談”平野啓一郎×ロバート キャンベル”2(『文學界』7月号)
平野さんとキャンベルさんの対談の続きです。
今思えば、コロナの影響で実施が危ぶまれもしましたが、ほぼ満員のお客様でぎりぎりのタイミングでした。
対談”平野啓一郎×ロバート キャンベル”1(『文學界』7月号) [掲載記事・取材など]
対談”平野啓一郎×ロバート キャンベル”1(『文學界』7月号)
ドナルド・キーンの一周忌、2月24日に紀伊國屋ホールで、紀伊國屋書店とドナルド・キーン記念財団準備委員会の共催で行われた対談です。
タイトルは、「ドナルド・キーンとは何者であったのか」で、2006年頃から父と親しかった平野啓一郎さんと、晩年数年の知人だったロバート キャンベルとの意義ある、興味深い対談でした。『文學界』7月号に発表されました。二回に分けてアップさせて頂きます。
馴染みのクリーニング屋さんへ(2012年3月12日) [ドナルド・キーン]
馴染みのクリーニング屋さんへ(2012年3月12日)
厚手のオーバーを着て、帽子嫌いの父が帽子を被っているので、寒い日だったのだと思います。
国籍を取得したのが、3月8日でしたから、四日後ですね。
よく父は自分で、ワイシャツなどのクリーニングを丸抱えにして、路地裏にある昔ながらのクリーニング屋さんに持って行きました。
このクリーニング屋さん(増田クリーニング)はもうないですが、お店のご夫婦ともこんなふうによく会話を交わしていました。そんなところからもお分かりのように、町内の有名人でもあり、人気者でもありました。
追想ドナルド・キーンさん(新潟日報 2019年3月28日) [掲載記事・取材など]
追想ドナルド・キーンさん(新潟日報 2019年3月28日)
父が亡くなって一か月ほどの記事です。新潟日報で、父の担当者、そして私の連載の担当者だった、つまり私たち二人のことをよくご存じの高内小百合さんの記事でした。